豆の山

クールなハゲと美女愛好家。家事育児パートに疲弊しつつ時の過ぎゆくままなる日々雑感をだらだら書いています。ナナメな王家ファン。

祖父に

こういうときに人は文章(というほどのものでもないが)を綴りたくなるのだなと、やっとわかった。
ネット上で日記もどきを書き始めてはや6年近くが経つが、私はプライベートなことを書くのをことさら避けてきた。私は嬉々として自分を語りうるほどには自分を知らないし、そもそも読む人だってそんな中途半端なもの面白いとは思うまいと考えていたので。
しかし、過去ログを読み直していると、自分でもオマエはアホか!?と思う半面、すぐ忘れるので、それなりに感情的なことも書いておいてよかったかなとも思う。というか、まさにそのために私はネット上で日記を書き続けてきたのだ。平生、「穏やかで優しい」と思われているらしい自分にうんざりしないために。


祖父が死んだ。
生きながらえていれば、来月大台に乗る目前での急死だった。
祖父の命を奪ったのは誤嚥性肺炎というもので、近頃高齢者がこのせいでよく死ぬらしい。まぁ、要するに肺炎である。たった3日の患いで、少し持ち直したかと思えた翌日、火が消えるように息を引き取った。徹夜明けのヘロヘロ状態で帰省した私は、一人っきりで朝まで付き添いを命じられ二夜めは病院のICUで徹夜することになった。祖父は熱があったが意識は比較的はっきりしており、私だということは判別してくれたのは幸いだったが、どのみち酸素マスクをつけた祖父の手をずっと握っていることくらいしか私にはできない。痰を吸引されるたび、ひどく痛がって私の手をきつく握ってくる祖父を、ただただ握り返してあげることしか。しきりに訴えかけてくるうわ言のような要求にも、私はうろたえるばかりで何一つ叶えてあげられなかった。どうでもいいような慰めの言葉をバカのように繰り返して、早く朝になって母がここに来て代わってくれればいいのにと、そればかりを願っていた。
私はこの年になって、ひとの命が消える瞬間というものに生まれて初めて遭遇した。医師が心音と瞳孔を確認して、死亡時刻を告げる現場にも初めて立ち会った。そして人間の温かみというものは、こんなに速く失われていくものなのだということも初めて知った。ずっと前に亡くなった曾祖母や数年前に急死したもうひとりの祖父は、私が対面したときはもう冷たくなっていたので。

こう書いていても涙が出ない。
思いっきり泣いてもいいよといわれたのに、私はろくに涙が出なかった。

職人だった祖父は口数の少ない人だったが、初孫だったことに加え私の誕生日が祖父が戦地で九死に一生を得た日と同じというので、私をそれはそれは可愛がってくれた。幼い頃、わたしが泊まりにいくと夜は祖父のベッドで一緒に寝なければ嫌がるほどに(もっとも私は祖母と寝たかったのだが…だってじーじゃんてばいびきがうるさいんだもの……)特に学のあるひとではなかったが、前世は猫よと家族に笑われるくらい魚が好きで、晩酌と活きのいい刺身がなければ承知せず、時代劇と相撲を見るのを好み、そうそう、うどんが大好きだった。子どものころにはもう手打ちうどんを作って食べてたんやと言いながら、私の目の前で打ってくれたこともある。頑固かつ性急で、年をとるにつけ出不精になってゆき家族(=妻と娘)には少々煙たがられるところもあったが、今思えば男らしい可愛げのある寂しがりやさんだった。

遺影に選ばれたのは、もう30年以上も前の息子の結婚式のときのもので、私にはキョトンとするしかない若い祖父が祭壇に飾られていた。百戦錬磨の大叔母たちが台所で奮戦している間、手持ち無沙汰の私と妹は祖父の傍らで誰ともわからぬお年寄りの昔語りに耳を傾けて過ごした。祖父は長の患いではなかったせいか死に顔もきれいで、弔問客もしきりに男前じゃと褒めていた。あんたのじーちゃんは腕の良い棟梁だったんよと聞かされ、私はわけもなく嬉しかった。
自ら建て、去年施設に入るまでずっと暮らしていた小さな家の座敷に寝かされ、祖父は愛した我が家から親族たちの涙と汗ともに送り出された。それは観測史上最高を記録した暑い日のことだった。特に悪いことも良いこともせず、地道にひっそりと世の片隅で生き、そして死ぬときまで辛抱強かった祖父に相応しい旅立ちの日だったと思う。

ああ、ここまで書いてやっと泣けました。
じいちゃん、もういちど一緒に海を見に行きたかったよ。あのうどんやさん好きだったよね?


愛してくれてありがとうございました。