豆の山

クールなハゲと美女愛好家。家事育児パートに疲弊しつつ時の過ぎゆくままなる日々雑感をだらだら書いています。ナナメな王家ファン。

無題

このところ、やっと少し心の整理がついたような気がする。
ああもう彼女に会えないんだな、という事実をあまり動揺せず
受け止められるようになってきた。
例えば、彼女が集めていた愛らしいパンダグッズを見つけたら
これ好きそうだな、買っておこうかと思ってふと我に帰る。
愕然とする。
痛みもする。
寂しさは募る。

それでも
ああこういうの好きだったから、きっとこれも気に入ってくれるかも。
心のどこかで冷静にそう思えるようになってきた。

家族も心配したのか何度も電話をかけてきてくれたり、
友だちも、もし良かったらお茶でもしない?と誘ってくれたり。
ありがたかった。
亡き人の想い出を語り合うのは
喪失者のためにこそ必要な儀式だ。

早く忘れたほうがいいよとも言われた。
あなたにはどうしようもないことなのだから、と。

でもそれは無理。
たぶん、私は死ぬまで考え続けるだろう。


彼女が去ろうとしたがり
私が残りたがる、この世界とは何であるか。
私たちはどこから来て、どこへ行くのか。
私たちは存在しているのか、それとも
<私>という現象は幻か、それとも他のものか。
私たちはなぜ限られた時間に閉じ込められてしまうのか

そういうことを。


でもその答えは書物のなかにはたぶんない。
人間の中にある。
何の根拠もないが、そんな気がしている。

『時とは人の作用の謂
世界は概観によるときは無意味のごとくなれども
その細部に直接働きかけて初めて無限の意味を持つ』


だったら、私は私にふさわしい働きとやらに打ち込んでやるが
なぜと問い続けることも止めるつもりはない。
優しい救いなどいらない。

だから、もう少し待っていて。
いつかどこかでもう一度きちんと話をしようよ。



いや、やっぱりいつものバカ話でいいから。
もう一度、笑って。