豆の山

クールなハゲと美女愛好家。家事育児パートに疲弊しつつ時の過ぎゆくままなる日々雑感をだらだら書いています。ナナメな王家ファン。

 震災以前、震災以後

大震災発生から2週間経った。
1週間がひどく長いものに感じる。日々刻々と明らかになる被害の状況、原発事故の影響が重く圧し掛かってくる。
ある日、この何とも言えない不調(眠れない、やたら不安を感じる)はずっとテレビにかじりついてニュースを見続けているから影響を受けすぎているのではないかと思い、試しにテレビのスイッチを切って、ラジオ音声に切り替えた。そして夜はラジオの音量を少し落としてみた。
そうすると、緊張が解けるのか、朝まで目覚めず眠れるようになった。一昨日は携帯の緊急地震速報が鳴ったにもかかわらず目覚めなかった。それはそれで危惧すべきことなのかもしれないが、今の私にはとにかく眠りが必要なのだ。あるいは誰かと他愛もないおしゃべりをすることが。
震災前の私は、ひとりでいることは、はっきり言って快適だったし、全く怖くも不安にも思わなかった。あなたは孤独に淫するところがあるね、と皮肉られたくらいの人間だった。なのに、このところ毎日メールをしてしまう。あるいは電話をかけて友人の、家族の、婚約者の声を聞きたがる。といっても内容はいつも以上に下らないことばかり。会えば会えたで終始手を繋ぎたがる甘ったれぶり。手が冷たいからとかもにょもにょ言いわけがましいが、要するに、私は不安で仕方ないのだ。

先日、母と電話で話をした。
ぽつりと母がこぼすことには
「お母さんね、あのニュース映像みてると、頑張る気がしなくなったわ。(手術してから)今まで絶対に死ぬもんか、と思ってきたけど、あれ見てると世の中にはどうやっても抗えないことがあると思い知らされるわね」
感情屋の母らしくなく、達観という感じの乾いた口調で言われ、私は言葉に詰まった。
自然の猛威を目の当たりにして、母の肩に入りっぱなしだった余計な力みが取れたってことならばいいのだけれど。


同じように誰かが言っていた。
私たちはこれから、あの震災以前、あの震災以後と区別して人生を語るようになるんじゃないかと。
それは確かに当たっているかもしれないと思う。

覚えていられるうちに、震災の日にお世話になった方のことを書いておこう。

不気味に軋む耐震構造高層ビルからほうほうの体で退去した私と上司は、京成線なら動いているかもしれないと駅を目指す途中、街中にあるシティホテルの前を通りかかった。ロビーでテレビをつけているのがちらっと見えたので、ちょっと情報を仕入れましょうとロビーに入り込み、そこで初めてテレビニュースを目にした途端、目に飛び込んでくる凄まじい津波の映像に息を呑んだ。到底この世のこととは思えなかった。
外は寒いので、電車が動くのをここで待ちましょうということになり、私たちはホテルスタッフが用意してくれたシートの上に座り込んでテレビをずっと見続けた。ふらりと何気なく入り込んだが、ホテルと言う場所は基本的に人の出入りは自由なので暖房は効いているし、トイレはあるし、ペットボトルのミネラルウォーターまで無料で提供してくれる、という一時避難場所としては実にうってつけの場所だ。
そのホテルで知り合ったのが、Aさんという60代後半くらいの女性だった。銀髪のショートカットにピンクの縁の眼鏡が素敵な、溌剌とした方だった。床に直接座っていた私たちに、そこは冷たいからこっちへいらっしゃいませんかと声をかけてもらったのが始まりで、ニュースを見守りながら私たちは女性同士の気安さからかいろいろとおしゃべりをした。Aさんは電話相談ボランティアの仕事で偶々3ヶ月ぶりに市内に出てきて、いつもより少し早めに帰ろうとしてこの地震に巻き込まれてしまったのだという。発生時コーヒーショップにいて、あまりの揺れにトレイにカップのなかのコーヒーがすべて溢れてしまったそうだ。Aさんの住まいはここから車で30分ほどのところにある町だった。偶然、その町は上司の親戚が住んでいるところだったので、地元情報に花を咲かせていると、Aさんがこの時間帯なら息子が仕事から帰ってくる頃だから電話して車で迎えにきてもらおうかと言い出したのである。良ければあなたたちもご親戚宅にお送りしますから一緒に帰りましょうとまで言ってくれた。恐縮する私たちを押し切って同乗を勧めてくれるAさんが、自宅にかけた電話がうまく繋がり、ご子息に連絡がついて来てくれることになった。この時午後6時半。
そして、Aさんの息子さんの車がホテルに到着したのが午後11時半だった。千葉市内は大渋滞していて、通常30分で到着するところ5時間かかったことになる。そして、また大渋滞の市内を抜けて上司の親戚宅前まで送ってもらったときは夜中の2時を過ぎていた。
Aさんは「お礼なんていいんですからね。私も1人だったらパニックになってどうしたらいいかわからなかったわ。あなたたちとご一緒できて、私こそほんとうに助かったのよ」と頑として車代は受けとらず、自宅住所も、フルネームも教えてはくれなかった。ただ、上司命令で私がこっそり近所のコンビニで調達してきた缶ビール半ダースは、晩酌を我慢して長時間運転で駆けつけてくれた息子さんのためにと差し出すと、苦笑しながら受取ってくれたが。
AさんとAさんのご主人は宮城県の出身だということだった。息子さんの車で家に帰る途中、流れているラジオのニュースを食い入るように聞きながら「今、3メートルの津波に襲われたって言ってたところが私のふるさとなんですよ。主人は石巻の生まれなの。あそこも酷い被害みたい・・・」と悲しそうに呟いていたAさんの声が忘れられない。

突然の大災害に巻き込まれた見知らぬ者同士の私たちは、不安に苛まれながら、それでも日常のおしゃべりをやめなかった。Aさんが私のことを独身かと上司に尋ね、彼女は近々結婚するんですよと暴露されたことから、最近のひとは何故結婚しないのかしら〜うちの息子も40歳だけど独身で、そろそろ家から追い出そうと思っているんですよ。もう少し早くあなたと出会っていたら息子とご縁があったかもしれないのにねぇ〜などと、話が脱線するする。
こんな非常時にそんな話はいいじゃないですか、と私はうろたえ、二人を遮ろうとするのだが、何言ってるの、こんなときだから幸せな話題がいいのよ!と熟女二人に真顔で押し切られて沈黙するしかないのだった。
普段なら私は自分のプライベートがネタにされるのはものすごく抵抗があるのだが、確かにこんなときだし、ひと様が楽しんでくれるならいいかなという気持ちにもなろうというもの。
最後にお別れするとき、Aさんが私をまっすぐ見て「お幸せにね」と微笑み、私は不覚にも泣きそうになった。
地震直後、彼から無事だというメールは一度届いたが、その後携帯電池切れで連絡がつかない。都内の道路をゆく大勢の徒歩帰宅者の映像を見ながら、今頃どうしてるんだろうなと心配になっていたところだったので。

あの地震体験は確かに私の中の何かを変えた。

これから自分は何が出来るか。どう生きていくべきか。
この2週間それをずっと考えている。