豆の山

クールなハゲと美女愛好家。家事育児パートに疲弊しつつ時の過ぎゆくままなる日々雑感をだらだら書いています。ナナメな王家ファン。

祖母に

九月のある週末、急に祖母と母が上京してきて、うちに泊まっていった。祖母にとっては四十年ぶりの東京見物である。近年とみに頭が黄昏れ気味の祖母の気分転換も兼ね、母が半ば騙すようにして飛行機に乗せたらしいのである。おかげで羽田空港で出迎えた私が祖母に「よう来たね〜疲れた?」と話しかけても、まだ茫然とした顔。
前夜、「うちベットないし、ホテル予約するよ?(というかホテルに泊まってほしい)」と母には提案したのだが、いいからいいからと私の棲家にレッツゴー指令が下る。とはいえ二人の滞在は二泊とごく短いものだったので、私はトイレに近い自分の寝床を祖母と母に提供し、自分はリビングの隅に雑魚寝してなんとかやりすごした。祖母は足が弱っていることもあり、特に名所観光などもしなかった。私が適当に料理したものをゆっくり食べてもらい、母と私が介助してお風呂にも入ってもらい(いつもはデイサービス施設で入ってくるらしい)、我が家でぼぉぉっとしてもらった。都内の移動はすべてタクシーを使い、休暇取れてもなかなか田舎に帰ってこない婆不幸な孫たちの顔と憧れの伊勢丹百貨店を見て、祖母は母に連れられて慌しく田舎に帰っていった。この間、ごく普通の男性(女性もだが)、出張帰りらしいサラリーマンのおじさん、乳幼児連れた若いお父さんたちが、車椅子老人連れの私たちにたいそう親切だったことに、わたしはいたく感動したのだった。ささっと、エレベーターのボタンを押してくれる、あるいは道をさりげなくゆずってくれたり、荷物を支えてくれる人の手というものが、こんなに有難いと思ったことはない。都会は人も多いから、施設のバリアフリーも進んでいるし、人のボランティア意識も高いわ。とは母の弁。

ごく短い滞在だったが、ただ一箇所だけ、祖母が自ら行きたいと望んだ場所がある。
九段にある靖国神社だ。
というのも、祖母の長兄は先の太平洋戦争で戦死したので、靖国神社に祀られているのである。もちろん、私にとって大伯父さんにあたるこの人のお墓は、田舎にもちゃんとしたものがあるのだが、祖母は靖国神社にはまだ参ったことがないので行ってみたいのだという。
私はあの大鳥居から拝殿までの長大な距離(五百メートルは優にありそう)が頭をよぎり、大丈夫だろうかとちと心配になったが、祖母がたって行きたいというからには是非連れていってあげたいと思い計画を練った。
その日の東京は三十度を越す夏日で、九月にしてはとても暑い日だった。陽射しが翳る夕刻、靖国神社の拝殿左脇にある小さな門の前にタクシーを横付けしてもらい、祖母の手をひいて、私たちはゆっくりゆっくりと石段を上がった。ここからなら二百メートルも歩けば、お参りができると思ってそうしてもらったのだ。しかし、お昼からあちこち移動した疲れが出たのか、祖母はもう歩けないと言い出した。拝殿の屋根はもうそこに見えているのにもかかわらず。母と私は途方にくれた。
しかしここで帰ってしまうのはいくらなんでも勿体無い。こんなに立派な神社だもの、もしかして車椅子の貸し出しサービスだってあるかもしれんがね、そう母と祖母に言い置いて私は社務所に走り、受付の人に聞いてみた。すると、就遊館(境内にある戦争関連展示施設)の受付に申し出れば、館内用の車椅子を境内でも貸し出してもらえるというではないか。こうなればどうやっても貸してもらうしかないでしょ。私は境内を斜めに横断して走った。休日昼下がりの就遊館は驚くくらい混雑していたが、受付の人に事情を話すと、何やら内線電話であちこち連絡をとってくれて、裏手にある衛士詰所(つまり警備員室。奥ゆかしいネーミングだ)で車椅子を貸し出す手配をしてくれた。境内で自由に使ってください。使い終わったらここへまた戻しに来てくださいねと言われ、有難く貸していただいた。
でまた、私は空の車椅子を押しながら参道を爆走するわけだ。珍しく女臭いワンピなど着て、ハイヒール履いておるのにだ。そのうえきっとスゴイ形相をしていたことだろう。
ようやく待ちくたびれた母たちのところにたどり着く。この間二十分くらいかかっただろうか。なんとか祖母を車椅子に乗せて、拝殿前の階段の下までたどり着くことができた。しかし、賽銭箱ははるか遠い。見上げながら、ここからおまいりするんでいいかねぇ〜と田舎弁丸出しで話していた私たちに気づいたらしい初老の衛士さんが声をかけてくれて、あちらからお参りしていただけますと指をさす。ひょいと左側を見ると、車椅子用の立派なスロープが作られているじゃないか。すごいねぇ〜さすがだねぇと言いつつ、私と祖母と母は拝殿の真正面、賽銭箱ギリギリ前までたどり着けたのだった。
TVなどでもよく映る拝殿だが、ここの神社は実際に見ると門も鳥居も建物もすべてがたっぷりとした造作である。拝殿内部の装飾なども簡潔で力強く、美しい。私ですら無意識のうちに厳かな気分にさせられるかんじ。黄昏時の空間奥に灯明がぽうっと浮かんで見えるのも、何者のおはしますとは知らねどもなにやらゆかし、といった風情である。
祖母は車椅子に座ったまま、それでも身を乗り出すようにして手ずから賽銭を投げ入れ、二礼二拍手してから、長い間頭を下げて拝んでいた。
私も神妙な顔で手を合わせてみたが、なぜか咄嗟に「ばあちゃんのお兄さん、こんにちは」と頭の中で話しかけてしまった自分にうろたえた。大伯父さんにしてみれば、こんにちは、どころじゃないかもしれないが、私には他にかける言葉が思いつかなかった。祖母に戦死した長兄がいたことは聞かされていたが、その人が何と言う名前で、どこで、何歳で亡くなって、生きていれば今いくつなのかも実は良く知らない。ただ祖母の母、つまり私の曾祖母は、息子の戦死の報を受け取ってから病みついて亡くなったと聞いている。息子の戦死が悲しすぎて後を追う様に死んでしまったと、今でも親戚うちでは言われている。
この日祖母は「大きい兄さんに会えたような気がした」「大きい兄さんは私をほんと大事にしてくれた」「昔のことをようけ(=沢山)思い出した」と言って、帰り際もずっと涙ぐんでいた。
結局、わたしたち人間は、亡き人を弔うためにこの世に生かされているんじゃないだろうか。弔うということはつまり、自分を大事にしてくれ、愛してくれた人たちの記憶をだれかに伝えることなのだ。
そう思った、晩夏のある日の午後のはなし。