豆の山

クールなハゲと美女愛好家。家事育児パートに疲弊しつつ時の過ぎゆくままなる日々雑感をだらだら書いています。ナナメな王家ファン。

 経過報告


当「豆の山」をご覧の皆様へ


先々週、突然の更新休止告知で驚かせてしまい申し訳ありませんでした。
ご心配をしていただいた方にはこの場を借りて心から御礼申し上げます。

ここではプライベートなことはあまり書かないようにしてきたのですが、リアル日常ではあまり言えないような感情をここに記録しておくというのはどこかで私の習慣になっているんだなあと実感しています。移転前を含めるとたぶん10年近い期間、ブログでだらだらつぶやき続けてきたせいかもしれません。私がこういうブログを書いているということを、家族、同僚、友人は知りません。ネットで知り合い、その後、ご縁があってお付き合いしていただけるようになったごく僅かな方しか生身の「dreamynov」をご存じない(はずです)。そういう気楽さが、モノグサな私の性に敵い、これまで書き続けてこられた一因でしょう。そのスタンスはこの先も変えるつもりはありません。
ほとんど外出はしませんが、つれづれなるままに、書きたくなったら書いていこうと思います。

今月上旬、母が癌と診断されました。
癌のなかでも難治性とされる膵臓がんでした。ただ不幸中の幸いというべきか、手術は可能と判断されました。腫瘍は健康診断で偶然発見され、自覚症状の全くない本人にとっても私たち家族にとっても晴天の霹靂というべき事態で、それからというものの、自分でも日々何をどうこなしたか分からないくらい様々な決断を迫られました。先日、母は無事手術を終え、現在は集中治療室にいます。来月いっぱいは入院生活が続き、その後抗がん剤治療が始まる予定です。

手術が終わり、母の顔を見て病院から帰宅する途中、夕陽に染まるビル群を車中から眺めながら、今後自分はこれ以上恐い思いをすることはないだろうという奇妙な達観が私を包んでいました。恐怖が去ったという意味ではなく、恐怖の正体がぼんやり見えてきたという感じでした。母の体内に巣食っていた恐怖の種を見てしまったせいかもしれません。その種はもしかしたら私のなかにもあるかもしれない。拍子抜けするくらい、小さな塊でした。
恐怖というものはたぶん不安からくるのでしょう。どう歩けばいいのかわからないから怖くてたまらないのです。選択肢の道筋がある程度見えてくれば、不安というものは薄らぐものです。
間違った選択で後悔するのが怖いという思いはあります。でも、どういう選択をしたとしても、仮にそれが後から見てベストな選択だったとしても、後悔というものは付きまとうのだとある人に言われ、私は随分楽になった気がします。

子供のころから私は「死」というものがとても恐ろしい、臆病ものでした。
私が古代エジプト人に惹かれてやまないのも、おそらく彼らが「死」を考え続け、文明の思考として昇華してしまった人たちだから。
でも、一昨年から親しい人を次々見送るうち、「死」は私にとって恐ろしいものではなくなりました。
例えるなら、隣の部屋という感じでしょうか。
いつか私もその扉をあけるでしょう。泣き喚いても、ここで終わりよと言われたらそこへ行くしかない。だったら、やりたいようにするのがいいのだ。
先のことはわかりませんが、今はそういう静かな気持で日々を送っています。

さて、これから買い出しをして図書館へ行って本の返却と貸し出しをして、洗濯物を取り込んだら、母のお見舞いに行ってきます。