豆の山

クールなハゲと美女愛好家。家事育児パートに疲弊しつつ時の過ぎゆくままなる日々雑感をだらだら書いています。ナナメな王家ファン。

 あなたの手は取れない

引越しに伴い、プロバイダを変更することになったため、丁度いい機会だからと、無線LANに切り替えることにした。週末、大型量販店を数軒はしごして親機と子機を仕入れ、平日帰宅後ふらふらしながらマニュアルと首っ引きで格闘すること4日、なんとか切り替えに成功した。よくやった私!
これにて、我が家はめでたく家中をのたうつ見苦しいケーブルループ及び醜いケーブル争奪戦から開放されたわけである。実はプリンターも無線LANで繋ぎたいというの野望もあるのだが、まぁそれは来月でいいや。

通勤経路も変わり、最近ようやく出口と乗り換え車両を間違えなくなった。朝は急ぐので決まったルートを歩くが、帰り道は毎日少しずつ変えてみて、近隣事情の把握に努めている。前の居住地では見かけなかった某自然派コンビニは品揃えが面白い〜

と、ルンルン気分で帰ると、今日も例の彼女からハガキが届いていた。

ここ1ヶ月ばかり音沙汰なかったので、忘れていたのだが、続くときは連日届く。どうやらまた波が来ているらしい。
破り捨てる前に嫌でも目に入ってくる文面からは、いつものように、淋しい淋しい仲直りしよう力を下さいコドクで(以下略)。

執着を形にしたらさもあらんという彼女の文字を見ていると、胸の奥が重くなってくる。中途半端な形で関わったせいで彼女に悪いことをしたんだろうなという苦々しさと、いい加減にしてくれと沸き上がる怒りとで半々。そしていつもの通りの破棄の儀式が繰り返される。

今となっては彼女にとって私がどう見えていたか、確かめるすべはない。確かめたいとも思わない。ひょっとしたら、彼女の中で私は理想の友人のように思われているのかもしれないが、そんなものまで責任を負えない。第一、仲直りを要する基礎的関係が存在しない。私は彼女のことをほとんど知らないのだから。

人に手紙を書く、メールを書く、あるいはブログやネットの掲示板でもツイッターでも、おしゃべりでも何でもいいが、表現するということは、理解を求める衝動だろうと思う。つまりは「私を」理解して欲しいということだ。
ところが、一転して目の前にあなたを理解していますよという人が現れると、時に私は怒りを覚えたり逃げ出したくなるのはなぜなんだろう。
彼女の「理解」は片務的だからだろうか?
理解するから理解してという要求が煩わしいのか?
私をからっぽにしそうな恐怖を感じるから?

元よりこれ以上関わらないと決めているが、心身へヴィな時にああいったものをもらうとボディブローのように効くのも事実。
郵便局へ転居届を出しているので、転送期間の都合上、少なくともあと1年はコレにつきあわねばならない。勿論、彼女が諦めてくれたらもっと早く片がつくのだが、おそらく解放の日を待つしかない。