豆の山

クールなハゲと美女愛好家。家事育児パートに疲弊しつつ時の過ぎゆくままなる日々雑感をだらだら書いています。ナナメな王家ファン。

 言葉にできたら

正直なところ、前記事については感情的に書きすぎたと後悔し、アップした後に削除しようか激しく迷ったが、今まで基本的に公開済み記事は削除はしない方向で来ているので、結局そのままにしてある。

昨日もハガキが来ていたが、私は内容を読むこともせず、そのままシュレッダーにかけた。もうすぐ、私の中の彼女の残像も粉々になるだろう。

淋しい辛い死にたいと繰り返す彼女と、そんな胸の内は一言も明かさずひっそり逝ってしまった彼女を私は知らないうちに重ねてしまい、何とかしなきゃ、何かできると思いあがっていたのだ。二人は全然別の人間なのに。

「死にたい人間は勝手に死ねばいいと思ってしまう」

彼女の死後、そう告白したひとを私は一時激しく憎んだが、今になってみると発言者の意図は少し違ったところにあるのかもしれないと思い始めた。おそらく、自分に出来ることは限りがあり、あれ以上の手助けはできなかったと冷静に分析して言ったのだ。正直で誠実なあのひとらしい。
一方の私は、罪悪感と贖罪意識で目が曇っていた。対象を捻じ曲げ、自己憐憫と厭らしい優越感にひたっていた。
私が真に救いたかったのは(そんなことが可能ならば)、そしてもう一度だけ謝りたいのは高校時代から閉塞感を共有してきた彼女であって、クスリを飲んで死ねると勝ち誇ったように言い張るあの彼女ではない。
私が彼女を切りたがっているのは、何事も運命だと思うのが一番楽だからだ。

最近、生死の話題になると自分の気持ちがすぅっと冷えていくのがわかる。口が重くなるというか、判断停止して何も言えなくなる。
先日、上司と出先で昼食を共にする機会があって、食事の最中なぜか話題が癌のことになった(上司には私の母の病のことも報告してある)。上司の親族の50代男性が膵臓癌と診断され、余命半年なのだそうだ。その方には3人のお子さんがあり、ご本人と奥様に告知はされたが、子どもたちに父親の病気のことをどう伝えるか悩んでいると。自分もこの間健康診断で癌かもしれない影があると言われ(結局精密検査で大事無いといわれたが)、彼の心情がわかるだけに辛いと。そして、しきりにあなたのお母様は運がよかった。ラッキーだと繰り返すのだった。

わたしは、最近は抗がん剤も進歩してますし臨床実験もありますから・・・とかモゴモゴ言いながら、目の前の焼きそばランチを食べることにひたすら集中し、箸が止まった上司にかまわず、すべて平らげた。
大丈夫ですよとも、諦めずに頑張ればきっと、とか月並な慰めすらうまく言えなかった。私たち家族が抱えるひやりとしたものを、無邪気なこのひとに伝えるのは難しい。かといってこういう時、いつも何をどんな風に説明すればいいのかがわからない。

癌になる人もいればならない人もいる。
癌と診断されて、その通りだったり、間違いと言われ大喜びしたりする。
(じゃあ、当たったひとは何かの罰を受けたとでも?)
死にたいという人が死ななかったり、死にたくないと笑っていた人がふっと死を選んだりする。
泣き喚いても淡々と日常は過ぎてゆき、私は今のところ呆然とそれを眺めて生きている気がする。