豆の山

クールなハゲと美女愛好家。家事育児パートに疲弊しつつ時の過ぎゆくままなる日々雑感をだらだら書いています。ナナメな王家ファン。

くりごと 


先日、それはそれは見事なぶどうを4房いただいた。
摘みあげようとして、私は慌てた。両手でなければ持てないくらいに重い。掌に包めば、ずしりとした重みを感じる堂々たる風格があり、くるりくるりと回してみれば、どの角度から見てもこれぞまさしく「ぶどう」という造形美。黒紫の艶を放つ粒がぎしりと、しかし、どれも美しい丸味を保って鈴生りだ。粒の先の茎の部分など、そのへんのスーパーで売られているぶどうのそれと較べると、枝と言ってもいいくらいの太さがある。そして一粒口に放り込めば(私は楚々と皮を剥いで食べたりしない)、目の覚めるような極上の甘さが口に広がる。種もなく、するするっと、気がつけばひと房平らげてしまった。

ふと「いのちなりけり」というのは、こういう感慨もいっていいのかしらんと考えたりする。
食べ物とは全く関係がないが、羈旅の歌。

“年たけて また越ゆべしと思いきや 命なりけり 小夜の中山"

西行法師の作である。法師が若い頃越えた山を、70を過ぎて再び越えた時に詠んだ歌だという。  


命があったからであるなあ という感慨というか、畏れ多きものへの感謝のように思える。
天命であったのだなあという訳も、私は趣があって好きだ。


これらの見事なぶどうの送り主は、去年早世した友人の母上である。母上が自ら農園で丹精したぶどうで、何でも今年の6月ごろ、受粉作業や諸々の世話をしたぶどうが、この秋に実りを迎えたので、もったいなくも私にまでおすそわけしていただいたのだった。美味しいぶどうを実らせるには、余分な枝を切らねばならないという。剪定作業で広い農園を一周し、元の位置へ戻ってくると、はや新しい芽が出ていたりすることもあるそうだ。生命力というものは何て強いものなのかと驚いたのですよと、母上は私に語ったのだった。植物の世話をすることで随分慰められましたという言葉に、少し安堵する。

会話がふと途切れ、私たちは沈黙してしまう。
あのとき胸中に去来するのは、おそらく同じ問いだったはず。
ではなぜ?
なぜ彼女の命の力は途切れてしまったのか。

答えは ない。


給料日で、ちょっと嬉しくて、いつもよりちょっとだけいいお肉を(安売りで)買い、ことこと葱と豆腐で肉を炊き、幸せな気分で夕食を貪る私と彼女のどこが違うというのだろう。私はただ流されるまま運よくここにたどり着けただけで、自分で決めてたと胸を張れるようなことは何もしていない。選べ選べ、間違うな、遅れるな一瞬は金なり。何があっても自己責任。ぐずぐずしているとひどいめにあうぞという圧力は日ごとに増していき、私は水底で息を潜めている。

私たちは選べると思い込まされているだけではないのか。

選んだと思えば少しは楽だから。自分でほんとうに選べることって、この世にどのくらいあるのだろう。

わからないわからない。あなたは答えを見つけましたか?


あなたがいなくなって、もうすぐ一年になる。
秋めいてきたせいか、無性に寂しい。